観察すること・されること
私が見ることによって変化してしまう
量子力学の世界では対象を観察者が観察するだけで変化が起きてしまうと言います。
私も量子力学にそこまで詳しくないので細かく説明できないのですが、簡単に言えば誰が見ても同じということはないということです。
Aさんが物体を観察した場合とBさんが観察した場合では観察するという行為によって物体が変化してしまうということです。
これは量子力学という小さい単位の話なので目に見えて変化が出るというような話ではありませんが大変面白い話です。
私がいるから世界は存在する
ドリアン助川さんの小説「あん」の中でハンセン病の患者の徳江と言う女性が出てきます。徳江はハンセン病だと分かって生きることに苦しみ、自分の生まれてきた理由を自問自答します。
そんな中、森の中で満月の囁きを聞きます。
「お前に見て欲しかったんだよ。だから光り輝いていたんだよ」
そこから、徳江はこう思うようになります。
私がいなければこの月は無かった。木々も無かった、風も無かった。私という視点が無かったら私の見ているあらゆるものは消えてしまうでしょう。
私だけではなく、人間がいなかったらどうだったか。人間だけでなくおよそものを感じることのできるあらゆる生命がこの世にいなかったらどうだったか。
無限にも等しいこの世は全て消えてしまうことになります。
私たちはこの世を観るために、聞くために生まれてきた。この世はただそれを望んでいた。
だとすれば、この世に生まれてきた意味はある。
この言葉を量子力学を通して考えてみると、観察者がいることで自分の存在があり、自分が観察することで相手が存在するということになります。
観察だけでなく、感じ、互いに影響を与え合うことによって存在するのです。
関係性の中に存在する
イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリは著書「世界は関係でできている」の中で
一つ一つの対象物は、その相互作用のありようそのものである。ほかといっさい相互作用を行わない対象物、何も影響を及ぼさず、光も発さず、何もひきつけず、何もはねつけず、何にも触れず、匂いもしない対象物があったとしたら、その対象物は存在しないにも等しい。
事物の属性は相互作用を問うしてのみ存在する。量子論は、事物がどう影響し合うかについての理論である。
としています。
私たちは様々な関係性の中に存在します。
私という人間だけでなく、私を構成する細胞一つ一つが関係性の中に存在するのです。
私たちは自分がどういう人間なのかわからなくなる時があります。
しかしそれは、誰が観察しているかによって変わるということです。
人や物は決して一面ではなく多面的なものです。
その多面のうち、自分が見たいと思ったものしか見ることはできません。
観察者が何を見たいと意図しているのかそれが私を変化させ、私の一面を引き出すのではないでしょうか。
私たちは多くの観察者に囲まれることで自分というものを形成しています。
ですので、周りにどんな人がいてどんな環境にあるのかによって自分というものは変化してしまうということです。
そして、自分の一番の観察者は自分です。
私という観察者がいるので私が存在できるのです。
生まれた時から比べると体も変わり、性格も変わったのを私はずっと観察し続けているのです。
自分という観察者は自分という対象に対してどういう意図、フィルターをかけているでしょうか。
そうした場合、本当の自分というのは見えてきません。
斯く言う私もフィルターだらけですが。